鎌倉の円覚寺で泊りがけの学生坐禅会に参加。2泊3日の合宿体験レポート

記事内に広告が含まれています。

東京に来てから、研究や仕事の合間にときどきお寺で坐禅を組ませてもらうようになった。もともと家でも坐禅や瞑想を行う習慣はあったのだが、やはりお香の香り漂う道内で姿勢を正すのは、格別身が引き締まる。

数年前に鎌倉の円覚寺(えんがくじ)で泊りがけの坐禅合宿に参加させていただいた。日帰りの坐禅会とはまた違った、雲水さんたちの修行の日々を体験できる貴重な機会だ。事前に申し込めば誰でも参加できるので、興味があればぜひトライしていただきたい。

坐禅が習慣になった理由

坐禅を組むようになったきっかけは、子供の頃、家にあった自然療法の本だった。

東城百合子のロングセラーだが、アレルギー性の鼻炎を患っていたので鼻にどくだみの葉を詰める治療法にはずいぶんお世話になったものだ。半信半疑で試したみたら、見たこともない青い膿がどばどば出て子供ながらに感激した。今でも道端にどくだみが生えていると、貴重な資源に見える。

この本の中に、ヨガのポーズや呼吸法を紹介しているコーナーがある。見よう見まねで続けているうち、寝る前に瞑想するのが習慣になってしまった。鈴木大拙や西田幾多郎を輩出した北陸の小都市で思春期を過ごしたのも、影響があったかもしれない。北陸の単調でうっとうしい寒空の下で過ごしていると、自然に瞑想的な気分になるようだ。

学生坐禅会は社会人も参加OK

東京に出てきてから近所のお寺の案内を見て坐禅会に参加するようになり、そのうち観光も兼ねて鎌倉にも足を伸ばすようになった。建長寺は大きな方丈で輪になって足を組むスタイルだが、円覚寺で参加した土曜坐禅会は居土林(こじりん)という道場で行われた。

もと柳生流の剣道場を移築した建物とのことで、しんとした空気に包まれたまさに修行の場という感じだ。坐禅会の合宿も、この居土林に寝泊まりできるというのが、一つの魅力になっている。

春に行われる学生坐禅会に申し込んだが、一般人でも7,000円の料金で参加可能だ。電話で予約すると、筆書きの宛名で参加許可証のハガキが届いた。

3月の中旬に2泊3日のスケジュールだったが、今年の冬季坐禅会は12月のクリスマスの時期なので、もっと寒さが厳しいだろう。夏季の合宿だと今度は蚊に悩まされそうな気がする。もちろん障子に網戸はなく、堂内は半屋外といえるくらい風通しがいい。

服装はそこまで厳しくない

服装に関しては、当期は厚手の上着やセーター着用不可とあったので、長そでTシャツとゆったりしたジャージの上下で臨んだ。貫禄がある袴や作務衣で来られている常連さんも数名いたが、そこまで服装は厳しく言われないようである。

厚手のダウンジャケットやパーカーを着ている女性もいたし、自分も予備で持ってきたフリースの上着を着ても咎められなかった。布団はシンプルだが冷たい床の上を裸足で歩いているとだんだん慣れてくるのか、普段は湯たんぽが手放せない自分でも、足が冷たくて眠れないということはなかった。

坐禅と作務を繰り返すスケジュール

合宿中のスケジュールとしては、初日夕方に集合してさっそく坐禅。夕食をいただき片づけしてまた坐禅。21時の就寝時間を過ぎても、やりたい人は外に座布団を持って行って坐禅…。雲水さんが数名、住み込みでサポートしてくださるのだが、自主的に夜も外で修行されているのが印象的だった。

もちろん朝は日の出前の4時から活動が始まるので、合宿中はたっぷり睡眠が取れるというわけではない。食事も基本的に早く済ませないといけないので、よく噛まずに茶碗から喉に流し込む感じだ。

古くから続く修行というものは、一般的にいう健康法という概念からはほど遠いようだ。それでも僧侶が体調を崩すという話はあまり聞かないし、自分も幸い風邪を引かずに合宿を終えることができた。

庭での草むしりは至福のひととき

2日目の日中は作務の一環として、境内の掃除をしたり庭の雑草をむしったりする時間がある。すでに坐禅と食事中の正座で足が悲鳴を上げている頃だったので、立って動き回れるのがうれしい。うららなか3月の日和で、梅が咲き乱れる居土林の中庭。無心に草をむしるという、なかなか得難い体験ができた。

長年自分で会社を経営していたので、他人の決めたルールの下で作業するというのが久々の経験だった。学生時代のアルバイトを思い出すような懐かしい気分で、だんだん謙虚な気持ちになっていく気がした。

最低限の食器で暮らす

普段から大食いなので精進料理で耐えられるか心配だったが、問題はなかった。ご飯と味噌汁に漬物というシンプルなメニューが続くが、お代わりし放題で、量もたっぷり用意してもらえる。ときどき差し入れのお菓子までもらえるので、腹が減って間が持たないということはなかった。

食事を作る係は、雲水さんと参加者のうち学生の関係者と思しき方々が担当してくださったので、自分は片付けだけで済んだ。最初の食事の際に作法を教わったが、大小2つのお椀を交互にお湯で洗い、その洗ったお湯も自分で飲んで始末する。

洗い場で使った水も下水に流さず、すべて庭の植物に散布する。徹底してものを無駄にしない暮らし方が実践されていた。洗顔もひしゃく一杯の水だけで、口をゆすぎ顔を洗わなければならない。

参加後に書き留めたメモによると、身の回りの道具は以下がすべてだ。

お椀はスタッキングして、ふきんと兼用の布に包んで3日間使いまわす。洗剤を使わないので雑菌が繁殖しないかちょっと心配だったが、お寺で食中毒になったという話も聞かない。修行の効果で耐性がつくのだろう。

禅堂の生活はミニマリズム

禅堂での生活は、各自に割り当てられた畳1枚分のスペースで、すべてを済ませることになる。床から壁の棚と天井下の物置まで、ちょうど畳の幅だけ輪切りにしたような空間が自分の持ち分である。この中に私物も布団もすべて収めて管理する。

寝る時は柏布団という独特の寝具を使うのだが、普通の布団を二つに折って敷布団と掛け布団を兼ねた寝袋のようなスタイルになる。きわめてコンパクトで折り目から冷気も入って来ないので、なかなか合理的な道具だと感心した。

常に叉手して歩くマナー

堂内への出入りや畳に上り下りする際は合掌一礼。私語は禁止で、歩くときも叉手(しゃしゅ)という、左手で右手を包んで胸元に掲げるポーズを取らないといけない。

トイレに行く際も一連の動作が必要なので最初は面倒に感じたが、そのうち板について苦にならなくなった。合宿が終わってから家に帰っても、無意識に叉手して歩いてしまうことがあったので、習慣の力というのは恐ろしい。

作法も大事だが、基本的に集団生活なのでテキパキと手際よく動かないといけない。食事の時間が極端に短いのもそのためだ。ものを食べる、鼻をかむ、下駄で歩くときも、極力音を立ててはいけないと指導される。一つ一つのルール自体に意味はなくても、型にはまって動くということが修行の一環なのだろう。

明け方の坐禅は格別の体験

坐禅中は、座布団の上に尻当てを載せてお尻を持ち上げるので、足が床に当たって痛いということはない。円覚寺では壁に向かうのではなく、通路側に向き合うスタイルだ。

座布団の縫い目がない方を前に向けるとか、畳の縁の木の部分にお茶を置くとか、細かいルールはいくつかある。それでも背筋さえ伸ばしていれば、足の組み方は自由という感じだった。自分は身体が固くて半跏府座しかできないが、怒られることはなかった。

1日に何度もある坐禅タイムは長いと40分以上続くこともある。ときどき体がこわばって窮屈になってくると、警策という棒で肩を打ってもらうとリフレッシュできる。当然痛いが、少しでも動いてポジションをずらせるのでありがたい。夜中に本堂をぐるぐる歩いて回る歩行禅という修業は、体をほぐせてうれしい時間だった。

早朝の日の出前、徐々に障子が明るくなってきて、庭から鳥の声が聞こえてくる時間帯は特に気持ちがよい。夜中に仏殿の基壇上に座布団を敷いて組む坐禅も、また格別だった。当然寒くて手足は凍えるが、姿勢を正して気を張り詰めていれば、不思議と気にならないようである。

食事中の正座が一番苦痛

最初は3日間も持つか不安だったが、なんとか最後までやり遂げることができた。初日の夜に書置きを残して帰られた方も何名かいたので、人それぞれ事情はあるのだろう。

自分が一番つらかったのは、坐禅よりも食事の時間だった。畳の上で、座布団なしでずっと正座しなければならないので、10分くらい経つと足が痛くてたまらなくなった。最後の方は痛みがひどくて脂汗が出てくるほどになり、飯が食えるのはうれしいが、食事の時間が怖くてたまらない感じだった。

合宿が終わってからも足のすねのあたりがずっと痛くて、そのまま放置していたらシンスプリントの症状が出てしまった。数か月むこうずねに鈍痛が続いて歩くのもままならなかったので、合宿に参加するなら坐禅だけでなく正座の練習もしておいた方がいい。

管長の法話「腰骨を立てる」

ときどき横田南嶺老師がいらっしゃって、お話を伺う機会がある。仏教に関していろいろとありがたい講話があったが、とにかく腰骨を立てる、呼吸を整えるのが大事とのことだ。

「この合宿も、ただ腰骨を立てるために来たと思ってもらえばよい」と仰せられていたのが印象的だった。拝聴している時間は当然正座で痛みに耐えていたので、結果的にそれ以外のことはほとんど覚えていない。

管長への質問タイムでは「イスラム教の自爆テロは正義か?」みたいな真剣な議論もあった。自分が正しく相手が間違っていると執着するから対立するのであって、すべては一つの仏心、善悪の区別も存在しない、というのがポリシーのようだ。

「茶碗と茶碗をぶつけるのでなく、錦の布で受け止めよ」そんな話もあった。合宿で教わった心構えが、その後に開催した会社の役員会など、仕事上のヘビーな局面ですぐに役立った気がする。

国宝の舎利殿を特別に見学

合宿参加の特典の一つとして、普段は非公開の国宝・舎利殿を間近で見学させてもらうことができた。扇垂木や火頭窓など、建築史の教科書で習った禅宗様の代表作である。正座で足が痛くて建物を見るより外を歩けることの方がうれしかったが、貴重な体験だった。

奥にある雲水さん専用の道場もちらっと見学できたが、居土林と同じように簡素な建物で、ここ1年中暮らしているのかと想像すると、頭が下がる思いがした。3日間の合宿ならともかく、出家して仏門に入るのは相当な覚悟が入りそうだ。

おやつは定番の鳩サブレー

3日目の休憩中にいただいたお菓子で、好物の阿闍梨餅が出たのはうれしかった。鎌倉名物の鳩サブレーも振る舞われて、これらはすべて檀家さんか関係者からのいただきものであるらしい。禅堂のタオルや筆記具もすべて、ほかから寄進された品物のようだった。

今でも豊島屋の鳩サブレーを見ると、単なるお土産というより命の糧のように神々しく見える。どちらかというと鳩はキリスト教のシンボルだが、滋養にあふれたバタークッキーは禅僧のソウルフードだ。

帰りに駅前でお土産に鳩サブレーを買ったが、坐禅中に考えたことや感想をメモするのに夢中で電車の網棚に置き忘れてしまった。さいわい別の駅で見つかって回収できたが、急に俗界に戻ると物事のペースが早すぎてついていけない。

合宿参加後、実生活への影響

合宿が終わって集合写真を撮り、打ち上げのようなかたちで最後にカレーをたらふくいただいた。もちろん具材に肉はないが、作り過ぎた分を胃袋の限界まで食べさせられた。禅堂で食べ物を残すなどもってのほかなので、自分の腹に収めるしか方法がないのだ。

修行中に教わった、坐禅中にひたすら息する数を数える「数息観」という方法が、すっかり板についた。気づけばジョギング中や道を歩いているときでも、ひたすら100くらいまで無意識に数を数えている。

修行を終えた後はしばらく神妙な心持ちになったが、1年も経つとすっかり垢にまみれてしまった。暇があれば、またときどき鎌倉に行って坐禅会に参加したいものだ。坐禅自体は家でも便所でも壁に向かって黙々と取り組めばよいのだが、北鎌倉の山間に入ると修行中の気分を思い出せそうな気がする。

坐禅は脳によいという噂

瞑想すると脳の活動がポジティブになったり免疫機能が向上するなど、科学的な効果が明らかになってきている。ビジネスの現場でもマインドフルネスが注目されるようになってきたが、基本的には調息・調心・調身。日常生活でも姿勢と呼吸に気を付けて過ごせば、坐禅に近い効果は得られるだろう。

残念ながら、イライラする時に坐禅を組んだらすぐ心が落ち着く、というような即効性は期待できない。30分座っていても、ずっとむしゃくしゃしていることの方がおおい。ただ、数時間経って気づいたころに、肩の力が抜けて呼吸が穏やかになっているとわかる感じだ。

脳の前頭葉が活性化されて、セルフコントロールしやすくなるというご利益は確かにありそうだ。最近はやりのマインドフルネスでも、エクササイズとして瞑想が推奨されている。禅僧の心拍変動を測ればハイスコアが出るに違いない。

もっとも、そういう安直な利益を期待して坐禅に取り組むのは、宗教的にはお門違いといえる。ガンジーが『獄中からの手紙』で、サヒシュヌター=Toleranceという英訳に違和感を示しているように、「いわれなき思い上がり」が含まれている。

東京から近くて通いやすい鎌倉の坐禅会

もし近所の坐禅会から一歩進んで合宿を体験したいと思ったら、東京からほど近い円覚寺はおすすめだ。まずは日帰りで居士林の坐禅会に参加してみて、気に入ったら合宿に申し込んでみるといいだろう。

禅堂での暮らしは何百年も前から続けられてきた伝統で、参加者が増えたり減ったりしても、この先また何百年も続いていくように思う。そういう普遍的な修行生活を垣間見れる、貴重な体験ができた。