マイケル・サンデルの功利主義とリバタリアニズムの解説がわかりやすい

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マイケル・サンデルの『これからの「正義」の話をしよう』はいろいろな解釈ができる。

者の主張は脇に置いても、政治哲学概論として「功利主義」と「リバタリアニズム(自由至上主義)」の解説は大変わかりやすい。個人的に興味がある分野なので、簡単にまとめてみようと思う。

ベンサムの貧民管理は斬新

ベンサムのパノプティコンや貧民管理プログラムは、まるでベンチャービジネスのケーススタディーのようだ。後者の「物乞いを救貧院に収容して強制労働させる」というアイデアは傑作といえる。200年後の今でもスリリングな提案に感じる。

当人がどう考えようが、街頭で異臭を漂わせて絡んでくる物乞いに出会ってハッピーだと感じる市民はいないだろう。実は裕福だが、趣味で物乞いしてゲームのようなスリルを楽しんでいる人もいるかもしれない。『課長島耕作』にそういう酔狂な経営者が登場する。功利主義的に厳密には、物乞いの満足度と社会全体の効用を天秤にかける必要がある。

しかしそれが物乞いでなく、露出狂の変質者だったらどう思うだろう?あまり想像したくないが、パブリックに下半身を晒して本人が得られる満足度と、それ以外の人が被る不快感を比べてみることがはできる。

物乞いにはまだ「宗教的な利他の精神を呼び覚ます」というポジティブな見方がある。しかし変質者に「忍耐と寛容の気持ちを目覚めさせる」という前向きな評価を与えることは困難だ。それが日本で寄付や募金を集める活動は禁止されていないが、公然わいせつ罪が犯罪とされている理由だろう。

まさに「政治の議論は正義や道徳の概念と切り離せない」というサンデルの主張の通りだ。パープルハート勲章の対象にPTSD患者を含めることを不適切に感じるのと似た理由で、物乞いはありでも露出狂の存在は認められない。ベンサム流の効用分析でも評価できそうだが、直感的にNGと思うのはそれが不名誉だからである。

交通事故の費用便益分析

功利主義の実践である「費用便益分析」もおもしろい。究極的に「すべての費用を計上して共通通貨に還元する」ベンサムの理想は達成できそうにないが、我々は日常的にこの種の分析を行っている。

命に値段をつけることをためらう人も多いだろう。しかし身内が交通事故に遭えば、いやおうなしに費用便益の分析に付き合わされる。後遺障害の程度に応じて慰謝料の相場は決まっているし、死亡による逸失利益はライプニッツ係数やホフマン係数を用いた計算式から冷徹にはじき出される。

弁護士の実務では、「赤本・青本」と呼ばれる日弁連交通事故相談センター発行の書籍が参照される。交渉事なので多少の変動はあるが、ある程度の裁判基準が存在することは間違いない。

結局お金で償えば、たいていの人が納得できるからそうなっているだけだろう。生命を費用に換算するのが道徳的に正しいかどうかよりも、何かしらルールを決めないと毎年50万件近く発生する交通事故を捌き切れない。文字通り「共通通貨」に換算した裁定は、理想というより我々の生活に根付いているといえる。

喫煙の自由 vs 禁煙の効用

フィリップモリスが「喫煙者は早死にするので国の費用負担は減る」と分析してバッシングを受けたそうだ。非喫煙者にとってはまことに痛快なエピソード。こういう皮肉な分析こそが功利主義の真骨頂だ。

自分は基本的に政治に興味ないが、禁煙問題だけには明確なポリシーを持っている。もし屋内だけでなくパブリックスペースでの全面禁煙を主張する政党が出てきたら、投票に行くと思う。東京オリンピックに関する禁煙強化の議論は、興味深く見守っている。

副流煙と受動喫煙の健康被害に比べれば、喫煙者や飲食店を擁護する主張は取るに足らない。ニコチン中毒というのは体験したことがないのでわからないが、喫煙者はタバコメーカーの宣伝や誤った価値観に洗脳されている面もあると思う。

中学生の頃、部活の先輩が「タバコを吸った方が体力がつく」と言っていた。事実、その先輩は強かったので妙に説得力があった。今では嘘だとわかるが、子供にそんな判断はできないし親にも教師にも聞けない。当時はインターネットで調べることもできなかった。

もしサリンやVXガスなどを生成するのが趣味な人がいて、うっかり漏らして他人を殺してしまったらどう思うだろう。程度は違うが、タバコも似たようなものだ。医学的に有害なことが明らかになった以上、これを禁止しない理由がわからない。

先日、入院して肺気腫の患者と同室になったが、24時間恐ろしい音を立てて痰を吐く様子はおぞましいものだった。すべての肺気腫患者が喫煙者とは限らないだろうが、入院してからも周囲に騒音被害を及ぼすタバコの被害は迷惑この上ない。

「個人の自由」という理由で喫煙を擁護する立場もあるので、禁煙問題に決着がつかないことは察しがつく。もし「酔っ払いも他人に迷惑をかけるから飲酒も禁止だ」と言われれば、さすがに困る。

ミルの長期的効用論

2章後半では、ベンサムの改良版としてミルの思想が紹介される。ミルが掲げる「長期的な効用」は「完璧な費用便益分析」と同じで机上の空論だろう。しかし、「功利主義の原則を曲げてでも少数派の意見を尊重すべき」という主張は、マイケル・サンデルのコミュニタリアニズムの思想に近いと思う。

功利主義批判に対するミルの反論は、「功利主義の限界を超えて道徳的理想を持ち出している」と批判の材料にされているだけだ。本書ではさらっと触れられているだけなのが残念だが、後のアリストテレスの紹介に匹敵するインパクトがある。

「他人に迷惑をかけない限りは、何をするのも自由」というミルの『自由論』の中心原理は、自分が両親から教わった唯一の道徳原理でもあった。基本的に放任教育だったが、このルールだけは守るようにいわれた。

田舎のサラリーマン家庭がミルを参照していたとは思えないが、そのくらい世界で普遍的に考えられている常識=道徳観念だと思う。物心ついてから何度か反証しようと思ったが、ほかにもっといい理屈を思いつかなかった。社会で他人と平和に共存できるルールを「一つだけ」挙げるとしたら、この原則しかないと思う。

質の高い快楽とは?

ミルの思想は功利主義の限界でなく、むしろその強度を確認することにも使える。論争の的になる「質が高い快楽と低い快楽」というアイデアも、結局のところ長期的な効用の話に回収できるのではなかろうか。

人はシンプソンズのテレビを見るよりシェークスピアの演劇を見る方が、「役に立つ」と思うから質が高いと認めるのだ。娯楽番組より文学作品を好む人の方が、生涯所得が多いかどうかわからない。しかし少なくとも欧米圏のハイソサエティーな人々とは、シェークスピアを知っていた方が話を合わせやすいだろう。

逆にアニメやコメディー業界で働きたいなら、シェークスピアよりシンプソンズを見ておいた方が役に立つ。趣味の質が高いか低いかは、評価する文脈によって変わる相対的なものである。ミルが快楽の高尚性を論じたのは、単にその効用性を上品に言い換えたにすぎないように思う。

人間の尊厳・人格という道徳的理念やコミュニティーに対する忠誠心も、結局のところそこに長期的・間接的「効用」があるから選ばれるのだと思う。ベンサムの効用の原理=道徳の科学というアイデアがここでも生きている。

相対的な道徳的理念

一方で、ミルの「満足した豚より…不満足なソクラテスである方がいい」という格言は、欧米以外では同意を得られない可能性がある。中国の古典哲学や日本の古典文学では、「愚か者の方が徳がある」とみなされる場合が多い。東洋の賢人とは、すべからく政治家でなく世捨て人だった。

その意味では、ミルがベンサムの功利主義に追加している道徳的理念は絶対的正義でない。ある特定の趣味や思想が「質が高い」と感じることは事実だが、その基準は文化圏によって相対的である。

徹底的な功利主義者といえども、コミュニティーへの帰属から逃れられないと看破したところが、本書におけるマイケル・サンデルの功績だろう。

「中立的正義はあり得ない」と思想家の行き過ぎや、過激派を抑えることが政治哲学の「効用」といえる。同時に、それ以上の真理を導けないのが共同体主義の限界とも思われる。

功利主義とリバタリアンの違い

功利主義とリバタリアニズムは似ているようで微妙に異なる。3章冒頭の「富の再分配」というテーマでは、全体の幸福を最大化するにはビル・ゲイツやオプラ・ウィンフリーに効率で課税することが功利主義的に善とみなせる。

「税金が高所得者の働く意欲を減退させてしまう」と批判するなら、それは上記のように功利主義の運用をめぐる議論にすぎない。一方、本人の同意なしに金を巻き上げることは権利の侵害と考えるなら、リバタリアンという立場になる。

マイケル・ジョーダンの多額の報酬に関する課税という議論についても、著者が挙げるリバタリアンの反論はどれも説得力がある。「富める者から盗み、貧しい者に与えることは、ロビンフッドが行おうと国家が行おうと、それはやはり盗みなのだ」という説明は、まるでアイン・ランドの小説にそのまま出てきそうだ。

「貧しい人には必要だから」という理屈には、何らの論理性も感じられない。一方で、理屈はともかく「富を分配した方が富裕層はさらに富める」という法則があるとしたら、リバタリアンも賛成するだろうか?

いや、そもそも納税者が自分で選べず強要させられるという時点で、個人の自由を侵害するのでNGだろう。リバタリアンが自由至上主義と訳されるように、一種の個人=原理主義ともみなせる。