エーリッヒ・フロム『自由からの逃走』を読んで現実逃避

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会社をやめて自由になり、毎日昼まで寝ていたり、一日中ゲームばかりして遊んでいても、誰にも文句をいわれない。対外的な束縛がなくなって、客観的にはすごく幸せとしかいえない状況だが、主観的には案外そうでもなかったりする。中二病というか中年の危機というか、夜中に目が覚めて「このままでよいのだろうか」と不安になることがある。

セミリタイアして、老後のシミュレーションとでもいえる貴重な時間を過ごしているので、まともに働いていない人間の不安な心理状態を研究してみようと思った。マックス・ヴェーバーに続いて手に取ってみたのが、エーリッヒ・フロムの『自由からの逃走』。

自由の否定的側面

まるでプリゴジンの『混沌からの秩序』のように、タイトルにエッセンスが凝縮されている。しかも英語の”Escape from Freedom”だと、著者Erich Frommの韻まで踏んでいるという手の込みようだ。

なぜ「自由」なのに「逃走」するのか、逆説的なタイトルに興味をひかれる。自分の生活に当てはめて考えると、自由な時間を持て余して、たいして必要でもない資格試験の勉強をしたり、やたらとブログを書いたり株主優待について調べたり、せわしなく過ごしている。せっかく自由になったのに、ある種の耐え難い状態から逃げようとして、活動的になっているように思えなくもない。

フロムの指摘する「自由」の否定的側面とは、まさにこのことだ。中年の危機というと卑近に聞こえるが、本書はナチスに追われて米国に亡命した著者が戦時中に出版したものだ。ナチズムと近代デモクラシーに共通して見られる集団的心理は、切実な社会問題と捉えられたいたのだろう。

刊行から70年以上経ってみると、著者の提案はいささか古めかしいというか牧歌的な理想主義に思われるが、近代人の個人的自我の同一性に対する懐疑というくだりは、今でも十分に刺激的だ。

資本主義を支える心理的メカニズム

本書の内容を一言でいうと、「近代になって教会の支配や封建制度から個人が自由になったのは喜ばしいが、いろいろ自己責任で決めるのはかえって面倒くさいとわかり、手っ取り早く楽になれるナチズムやデモクラシーに依存するようになった」という感じだ。

「宗教改革が資本主義の発展する精神的インフラを整えた」というフロムの主張は、マックス・ヴェーバーの議論をなぞったものである。労働対価を得ることよりも、努力や仕事それ自体が目的とみなされるようになったことが、産業革命の蒸気機関に匹敵するくらい資本主義の原動力になった、といわれている。

心理学者のフロムはヴェーバーに比べて、ルターとカルヴァンの個人的な性格構造と、支持層であった中産階級の心理的動機にまで突っ込んで分析しているところがユニークといえる。

宗教改革とナチズムの類似性

宗教改革では「第一次的な絆」と呼べる未開時代・中世の固定的な社会役割(外的権威)に代わって、予定説や自己放棄というかたちの信仰が広まった。封建制が弱まって個人主義が台頭してきた一方で、経済的自由を得た一握りの資本家以外の中産階級は、かえって不安定な経済状況に放り込まれ、それが宗教改革を受け入れる心理的バックグラウンドを形成したとされる。

製品をつくっても売れるかわからないという市場のメカニズムが、カルヴィニズムの予定説にたとえられている。中世のギルド制では、規則に縛られる代わりにほとんど競争がなく、与えられた役割を果たしていれば安定感と帰属感を得られた。しかし、資本主義の競争社会では食うか食われるか、努力して報われるかも本人のあずかり知らないところとなった。

ルターの場合も、基本的な性悪説と個人の無力を前提とするところはカルヴァンと共通している。宗教改革を経て、信仰とは教会から免罪符を買うことではなく、自己の救済を確信できるかという個人的な問題(義務や良心という内的権威)にすり替わった。

しかし、自分が救われるかどうかという懐疑を心の中で繰り返すのは耐え難い。役に立たない「自分の考え」というものを放棄して、神や皇帝の権力に委ねることが正しい信仰だとルターは説いている。

「神の前では無力な人間」というイメージが、資本主義の台頭で脅かされる側の人々の心境にマッチした。自由の重荷に耐えかねて、自ら進んで社会の歯車になろうとする集団心理が、ナチを支持したドイツ中産階級にも共通してみられるとフロムは分析している。

服従か思考停止、2つの逃避パターン

フロムは人類の歴史の中で、個人主義が発展してきたプロセスを「個性化の過程」と呼んで、子どもの成長にたとえている。子どもが成長して親の保護から離れる一方、まだ社会的な役割を果たせず孤独感や無力感にさいなまれる。そこで内面的な強さが培われなければ、外的な権力に依存したりするような「逃避のメカニズム」が形成される。

近代人は多かれ少なかれ、寄る辺のない強迫神経症的状況に置かれており、

  1. マゾヒズム的倒錯から自己否定と権威への従属を求める(ナチズム)
  2. シニシズムを経て流行を無批判に受け入れる自動機械と化す(近代デモクラシー)

という2つの逃避パターンが描かれている。

フロムは第3の健全な道として、各自が独創的な思想を持ち、「~からの(消極的)自由」ではなく「~への(積極的)自由」を体現することを理想としている。終章で「民主主義的社会主義」と国家による計画経済のメリットに触れているが、具体案はなくあくまで心理学の話という印象を持った。著者はきっとネオリベラリズムのようなことを言いたかったのだろう。

他人から与えられた目標

フロムが催眠術を例に出して、近代人の思考の矛盾を突いている点は興味深い。いわく、個人が持っていると信じている願望や目標というものは、実は匿名の権威から与えられた偽物にすぎない。たとえば「出世して新車を買う」という目的は、果たして本当に自分が欲していることだろうか。それとも他人やマスメディアに影響された、レディ・メイドの目標に過ぎないのではなかろうか。

「実際には欲すると予想されるものを欲しているにすぎない」という事実に気づくが、この疑念は耐え難いので、虚構とわかっている目標にますますのめり込んでいく。パーソナリティの同一性は喪失するが、他人の期待に順応することによって懐疑は静められる。このように機械化され手段と化した人間は、近代的産業組織にとってはむしろ好都合である。

「自分の信念が、自分自身のものではない」というテーマは、SFの定番ネタといえる。攻殻機動隊ARISEで、ファイアスターターに植え付けられた疑似記憶など、その典型だろう。

洗脳から解放されたと思っても、果たしてこれはまた別のマインドコントロールではなかろうかと、『インセプション』のように夢オチが続くおもしろさがある。

理想的自我は存在しない

フロムは「自我の同一性」というデカルト以来の近代哲学を前提として、「自由のプレッシャーから逃げない自発的・独創的・積極的な自己は存在する」と結論している。自由の逆説的な不自由を追求する重苦しい議論の中で、いささか性急だがカタルシスを用意するのは時代の要請だったのかもしれない。

今どき風に考えるなら、そもそも自我というものが脳内のエージェントの集合体で、便宜的に作り出されている幻想かもしれない。人間が性善説か性悪説という議論も、行動経済学によれば「インセンティブによってどちらにもなる」といえる。

現代人は「そもそも理想的な真の自己なんて存在しないかもしれない」という決定不能命題を抱えていて、フロムの時代より深刻なアイデンティティーの危機にさらされている。楽観的にみれば「どうにでもなる」とも考えられるが、「決断に責任をともなう」という状況は昔も今も変わらない。

○○からの逃走

会社に行く必要がなくて暇になると、さしたる必要性もないのに用事を入れたりむやみに活動的になるのは、フロムのいう「自由からの逃走」心理なのだろう。手持ち無沙汰なので飲みに行こうかとか、気晴らしにジョギングでもして汗をかいてこようか、というのも逃避のメカニズムかもしれない。

一方、試験前に無性に部屋を掃除したくなるのは、自由の重圧というより単に試験のプレッシャーから逃げたいだけだろう。「○○からの逃走」というと高尚に聞こえるが、原因が明らかならそちらを解決した方が早い。片づけのこんまりさんも、そんなことを言っていた。

中年の中二病は、大人になってからかかる風疹のように始末が悪い。フロムが警鐘を鳴らす、相対主義のアナーキーやニヒリズムに陥る前に、自分が本当は何から逃走しようとしているのか自覚できたらいいと思う。差し当たっては、面倒な会社の税務申告だろうか。