ティム・インゴルド『ラインズ 線の文化史』によると人間はヒモらしい

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イギリスの人類学者、ティム・インゴルドが2007年に出した”Lines: A Brief History”の邦訳『ラインズ 線の文化史』レビュー。

文化(社会)人類学の扱う対象は、各民族・集団の言語や生活、宗教や芸術など幅広い。その中でも本書は「発話と歌の区別」を研究から始まって、楽譜と記譜法から表記法、そしてその構成要素である線(ライン)の起源をたどる壮大な試みである。

世の中の線、目に見える線状のパターン一般の分析という抽象的な取り組みに見えるが、著者の意図するところは明快である。すなわち、「人類を含むすべての生命体は、モノではなくラインでないか」という仮説だ。

生き物とは時間・空間上に展開する確固とした実体ではなく、様々なコンテクストが絡み合った多様体だと想定してみる。ここでは「生きること」とは本来、目的志向的な活動ではなく、環境との相互作用によって自由に発展していくことだったと考えられている。

ひたすら目的地を目指すパッケージツアーではなく、行くあてもなくさまよう徒歩旅行のようにプロセスを楽しもう。スピードは問題でなく、「つくりながら考える」という柔軟性が必要だ。

本書ではそういう風に「世界の見方を変えてみよう」というメッセージがこめられている。いわゆる処世術とかハウツーものでもなく、現代文明批判という堅苦しい内容でもない。ジャンル分けが難しい本だが、せわしない日常に行き詰まりを感じている人には、活路を見出すきっかけになるかもしれない。

地下茎(イモ)からヒモへ

広義にはドゥルーズ=ガタリの系譜に位置づけられる著作だと思うが、ベースが人類学なので難解過ぎる感じではしない。ツリーに対するリゾームのように、以下のイメージが対比されて語られる。

  • 直線、連結器、結節点、刊行地図、海上旅行、占拠、帝国・植民地主義
  • 軌跡、網細工、踏み跡、略図、徒歩旅行、居住、遊牧民・放浪

後者のカテゴリーの方がティム・インゴルド的にはポジティブで、パウル・クレーを引用して「散歩にでかける」ラインと表現される。どうやら西洋哲学や形而上学のアンチテーゼとして、リゾームに代わる「ひも」みたいな概念を打ち出したいように見える。

生の時間は線状的なものであるが、その線状性は独特なものである。生の線状性とは、空間内の各地点が共時的に配列されるように、通時的に配列される現在の瞬間の継起を結び合わせる点から点へと進むラインではない。それは成長するラインであり、伸び続ける先端から前進し、地下茎やつる植物のように土地を探索する。

『ラインズ 線の文化史』

ラインの分類

最初にラインの分類として、以下の5つのカテゴリーが提案される。

  1. 糸(thread)
  2. 軌跡(trace)
  3. 切れ目(cut)、亀裂(crack)、折り目(crease)
  4. 幽霊のライン(思弁的、形而上学的)例:星座や地図上の線
  5. その他、分類不能な線

糸はそれ自体で成り立つが、軌跡は表面に書かれるか刻まれるという特徴を持っている。そして糸も寄り合わさると編み物のように面状に変化したりする。

シベリアやニューギニアの装飾芸術から始まって、西洋のテキストも当初は織物みたいなものだったと分析される。音楽が器楽になるまでは発話と歌が同じであったように、活版印刷が発明されるまでは記述と機織りは似た活動だったとされている。

正直なところ、ここまでは全然おもしろくない。先端恐怖症のように、線のように見えるものに異常な執着を持つ研究者の趣味という感じだ。続く第三章あたりから、ようやく共感できる話が出てくる。

デジタル化批判

ラインの歴史とは要するに、効率化を求めて人の表現形式がどんどんアナログからデジタル方式に変わっていったという指摘だ。そのため表記法としての精度は増したが、楽譜から再演奏したり、書物を追体験したりする行為が昔より味気ないものになってしまった。

著者自身は現代人特有の直線的思考が悪いと決めつけているわけではない。しかしパウル・クレーから引用されたエピソードによると、「世の中デジタル化されすぎてつまらない」と言っているようだ。

「0か1できっぱり物事を評価するのではなく、多様性も認めよう」と主張しているように見える。著者が40年前にフィールドワークしたフィンランドのサーミ人や、本書で紹介されるパプアニューギニアのアベラム族は、我々とまったく異なる思考回路で豊かに暮らしているのかもしれない。

放浪のすすめ

著者自身によるポンチ絵や略図が豊富に掲載されているのが本書の特徴といえる。歩行(walk)と組み立て(assembly)、「ハブ・スポーク・モデル」や「結び目」という概念を理解するには、言葉で聞くより絵を見た方が早い。出てくるイラストをなぞってみると、こんな感じになる。

「目標(goal)に向かってひたすら突き進む」という現代人の風習は、ティム・インゴルドによると近代になってから発生した特殊な考え方らしい。それ以前の人類にとって、日々の生活とは「計画的」というより、散歩や放浪に近いものだったと推測されている。

過去の記憶とは点の連続というより、絡み合った糸状の組織。そして極論すれば、「人間および生命体そのものもライン」とのこと。べルクソンの『創造的進化』から引用されたフレーズによると、「生物は恒久的な事物でなく、ひとつの通路」なのだ。

人間はヒモである

人体の細胞のうち、胃や腸の粘膜は3日程度ですべて入れ替わる。皮膚は1か月、脳細胞も1年くらいで入れ替わるというのが通説だ。そして自我や自意識というのも社会生活において便宜上、生じている脳機能の一部に過ぎないという考え方もある。

自分が「ひも」とか「管」みたいなものだとイメージするのは刺激的である。なんとなく鈴木俊隆の著作で、意識活動が「回転扉」にたとえられていたのを思い出した。

私というのは、息を吸ったり、吐いたりするときに動く回転扉にすぎません。それは、ただ動いている、それだけです。

『”禅マインド ビギナーズ・マインド “』

『ラインズ』は中国の書、毛筆文化を西洋のペンと対比させて「世界のリズムや運動を彼らの身ぶりにうちに再生すること」と表現している。つまり生命とは、純粋な言葉や音というより、両者が一体化していたギリシャ時代の音楽=言語芸術みたいな活動なのだろうか。

まさにモノというより作用、幾何学的な「点」よりは結び目状の円環的ラインというイメージ。

建築家の描くライン

「占有・占拠(ocupation)より居住・住まうこと(habitation)」というスローガンは、建築プロジェクトの説明にそのまま流用できそうだ。そして「場所=渦巻」と捉える上記の概念図は、そのまま藤本壮介のべトンハラ・ウォーターフロント・センター案に見えてくる。

 

『ラインズ』に続く『メイキング』もそうだが、ティム・インゴルドの著作の特徴は、建築関連の引用が多いことだ。本書でも、ゴットフリート・ゼンパーをはじめ、アルベルティやコルヴュジェ、そしてアルヴァロ・シザやダニエル・リベスキンドといった現役建築家の図面も出てくる。

建築の設計図はまさに直線的・硬直的な表現形式で、それに対してフリーハンドのアイデアスケッチが対比される。後者はいわゆる「巨匠スケッチ」。他人に伝えるための図面というより「描きながら考えた」という痕跡だ。そのため寸法やパースの正確さよりも、ミニマルでヘタウマであるほど巨匠っぽく見えて評価される。

プレゼン用のこなれた線描画は「軽蔑をこめてプリティ・ピクチャーと呼ばれる」…著者のこの指摘は鋭い。

確かに建築関連の展示で、あからさまに外注して作られたパースやCGを見せられてもあまりおもしろくない。むしろ雑誌や広告に載ることのない、建築家自身が設計中に残したアイデアスケッチの方が想像を膨らませて楽しめる。

仕事として定型化されたプランや詳細図を書くことも必要だが、やはり設計のプロセスで楽しいのは、最初のエスキース、ブレストの時間でないかと思う。そして建築家が鉛筆でニョロニョロとスケッチを描くように、生命に終わりはないし、自由に考えて暮らした方が楽しめる、というのが本書の結論だったように思う。