いまさら「正義」の話をしてみよう~マイケル・サンデルの白熱教室再考

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ブックオフの株主優待券を消化するために購入した古本、マイケル・サンデルの『これからの「正義」の話をしよう』レビュー。

7年前くらいによく売れた本は、たいてい古本屋で大量に平積みされている。文庫本も出ているので、普通に買うなら単行本よりそちらが安い。

原題は超シンプルに”Justice”。その後「なんとか教室」とか「○○の話をしよう」という邦訳が流行ったのは、この本の影響だろう。

2010年にNHKの教育テレビで放送されていた「白熱教室」のシリーズは見たことがなかった。Youtubeに日本語訳付き動画が公開されていたので、雰囲気はつかめた。

動画のとおり、ハーバード大学での講義を要約した本。ビジネス雑誌の特集を読んで概要は把握していたが、どうも自分のポリシーとは逆な気がしてこれまで食指が動かなかった。

 政治哲学はお金の臭いがしない

正直なところ、「正義」というタイトルからしてまったく興味を持てない。道徳や政治哲学というテーマには「お金の臭い」が全然しないからだ。むしろお金を取られる方の税金とか義務という話だろう。健全なマネーを遠ざけるような腐臭すら感じる。

本書を手に取ったのは、単に暇だったからだ。読書はたいしてお金もかからず、時間をつぶすにはもってこいの道楽。たいして期待はしていなかったが、意外とおもしろくて2~3度読み返してしまった。

この本を読んでも儲からないが、少なくとも自分の思想傾向を知っておくことで、道徳的ジレンマに遭遇したときに判断コストを削減できる。あるいは無意識に行われる自分の価値判断を認識することで、頭が固くなるのを防げるメリットがあるだろう。

著者の主張に賛成でも反対でも、弁証法的に内省するきっかけをつくれるのが本書を読む「効用(utility)」といえる。特に「功利主義」の解説がコンパクトによくまとまっていてわかりやすい。

哲学概論と見せかけつつ…

本書では大学の授業として、時事問題に絡めて哲学概論のような話題が展開される。ギリシャ哲学から現代のアメリカ政治哲学まで様々な思想を中立的に紹介しているように見えるが、実は著者のポリシーは明確に存在する(最後に種明かしがある)。

功利主義もリバタニアンも、リベラルな平等主義者も否定して、マイケル・サンデルが標榜する立場はコミュニタリアニズム(共同体主義)というらしい。講義の流れもこの思想を効果的に説明するために組み立てられている(そのためアリストテレスが最後に来る)。

中盤まではニュートラルな感じで解説されるのに、9章目くらいからどうもキナ臭いと思った原因がそれだった。この本を読んで、ようやく自分の政治思想的なポジションを実感できたといえる。

まるでリトマス試験紙のように、大いに賛成するか猛烈に反対する読者層に分かれそうだ。まさに講義室で論争を巻き起こすこと自体が著者の狙い…思想上の炎上マーケティングとも考えられる。

「結局、われわれのように多元的社会に生きる人びとは、最善の生き方について意見が一致しない」と認めつつも、懐疑主義を否定して各論をていねいに取り上げるのが本書のスタンスだ。

著者の主張は明確なので、こちらも立場を明確にしてレビューした方が有意義だろう。本書を読んだ感想からいうと、自分はリバタリアン寄りの功利主義者らしい。ジョン・ロールズの平等主義にはまったく同感できない。

共同体主義はよくわからない

本書の醍醐味は、無数に挙げられる道徳的ジレンマと思考実験にあるといえる。最近の事件や裁判から引き合いに出される事例は、どれも物議をかもしそうな両義的なものばかりだ。

冒頭に紹介される功利主義の考え方に同意しつつも、事例によっては功利的でない方の意見に思わず賛成したりする。その矛盾を突いて「完全に中立的な正義はありえない」と指摘するのが著者の論法だ。

ところが最後まで読んでも、サンデル自身はコミュニタリアニズムの思想について多くは語らない。「AでもBでもない第三の思想C」という提案だが、C自体の特徴が「非Aかつ非B」という風にしか説明されないので曖昧なままだ。

「物語る自己、位置ある自己」という言葉でコミュニティーの重要性を語ろうとするが、いまいち文学的でピンとこない。何度か読み返してみて、どうやら著者の掲げる共同体主義とは、功利主義やカント・ロールズの批判としてとらえるとしっくりくる気がした。

サンデルの持論すべては受け入れがたいが、ポジティブに捉えれば評価できるポイントもある。共同体主義自体はまだよくわからないが、アリストテレスを引用して著者が推奨する「道徳にもとづく政治」というのはありだと思う。

功利主義はわかりやすい

個人的には冒頭2章の功利主義を説明するくだりで、ベンサムの反論を要約した文章が一番腑に落ちた。

ベンサムはこう書いている。「ある人が効用の原理に戦いを挑もうとするとき、その人は気づかないうちに、戦おうとする原理そのものから戦う理由を導き出しているのだ」。

道徳についてのあらゆる論争は、正しく理解すれば、快楽の最大化と苦痛の最小化という功利主義原理の適用方法をめぐる対立であり、原理そのものをめぐる対立ではない。

マイケル・サンデル 『これからの「正義」の話をしよう』

要するに「功利主義の批判者はそうすることが多数の幸福を最大化するから批判するのであって、ルール自体でなく運用に関する議論にすぎない」という論法だ。2~3章の功利主義とリバタリアニズムの解説はわかりやすい。他の思想は受け入れがたくても、この部分だけは読む価値がある。

本書で取り上げられるモデルケースはどれも興味深い。マイケル・サンデルは賛成/反対の論拠を説明するだけで、あえて自説や結論を述べることはしない。終盤に向かって徐々に著者のポジションが明かさる仕組みになっている。

少し文脈をずらせば、いずれも裁判や戦場のような極限状態で問われる特殊ケースではなく、日常的に関わっている価値判断だと気づく。「暴走する路面電車」は毎日いたるところに出現するのだ。いくつかの事例について、自分が考えたことを述べてみたい。

便乗値上げは日常的

2004年ハリケーン・チャーリーの被害にともなう便乗値上げは「経済学的には議論しても意味がない」というトーマス・ソーウェルの主張に賛成だ。単に自由市場の特徴が極端に現れただけに思われる。

この冬、冷夏でスーパーの白菜やキャベツが2倍くらいで売られているのも同じ状況といえる。高くても鍋に白菜を入れたい人は買えばいいし、そんなに出すほどでもないという人はもやしや豆苗で済ませればいい。

もしクライスト司法長官のように「緊急事態で切羽詰まった買い手に自由はない」と考えるなら、それは単に備えが足りなかったというだけだ。異常気象やその他の災害に備えて、余分に貯蓄するか地震保険のようなサービスに加入しておけばよかっただけといえる。

もし交通事故に遭って、日ごろの節約のために傷害保険に入っていなかったとする。お金がないので、病院に治療費をまけろといえるだろうか。あるいは正常な自由市場の状態でないので、国が医療費を負担しろと訴えるのだろうか。スーパーの野菜値上げもハリケーン被害も、程度は異なるが同じ類の問題に思われる。

震災と復興税

日本の例では、東日本大震災に関して平成25~49年の24年間も復興特別所得税を強制徴収されるのは不当だと思う。自主的に寄付するならOKだが、富裕層も貧乏人も一律徴収されるお見舞金みたいなものには反対だ。

日本国内において、地震のリスクは地価や賃料に織り込み済みだと想定できる。田舎は不便だが、安いから山奥に住みたいというのは個人の自由だ。もし想定されるリスク通り、あるいは想定外の火山の噴火などで被害を受けたら、国民から税金を取って手当すべきだろうか。

同様に、北陸から東北の日本海側エリアに住んでいる人は、雪かき・雪下ろしが大変だから、毎年冬に国から勤労手当を支給すべきだろうか。沖縄に住んでいると1年中紫外線対策が大変だから、国から皮膚がん予防の奨励金を配給すべきだろうか。

個別のケースを考えると、どこまでなら許させるかと公平に判断することは絶対できない。サンデルが指摘するように「絶対的に中立な正義など存在しない」とすると、そういう不透明な交付金や「便乗増税」は一律廃止する方がまだまし(公正)だ。自分は古典的自由主義の見解を支持する。

企業救済の効用

しかしハリケーンや震災のように発生が稀で被害が甚大な場合、何とか助けになりたいという気持ちが起こるのは理解できる。赤十字のような民間団体で寄付を募るより、税金として国が徴収した方が被災者に公平に分配できるかもしれない。

功利主義的に考えれば、復興税も全体の幸福を向上させる上では正義といえる可能性がある。増税分で公共事業を増やせば、被災地だけでなく全国的な経済振興に役立つかもしれない。こういう考え方なら、便乗増税の理屈はハリケーンや震災以外でも通用することになる。

リーマンショック後に、米国で銀行や金融会社を救済するのに国費が投じられたのは、完全に功利主義的な理由といえる。事業に失敗して倒産した会社を税金で救済する道理はないが、経済が崩壊して国全体にもっと深刻な不況や失業が蔓延するなら話は別である。

企業救済のために「経済的な津波」というメタファーが用いられたのは皮肉といえる。米国民は、注入された税金から多額のボーナスを受け取った救済企業の役員を憎んでいると思う。憎たらしいが、潰すに潰せないから支援するしかないのだ。

日本の復興税も、突き詰めれば金融危機後の企業救済と同じ話に感じる。リバタニアン的には復興資金を国民に強要するのは不正だが、功利主義的には幸福の最大化に寄与するので公正といえる。

結局どの国でも議論に結論は出ないまま、最後は大衆迎合主義で見切り発車している状況なのだろう。絶対的な正義はない。しかし結論は出さねばならないので、戦場の指揮官のように独断でジレンマを解決するしかない。

その判断が正しかったかどうかは、歴史を振り返って評価するしかない。勝てば官軍。のちに多数の国民や学者から称賛されれば、良い政策だったといえる。

ゲームのルール

一方で、増税に関係がない米軍パープルハート勲章のような問題は、運用側が勝手に基準を決めればよいと思う。アフォーマティブ・アクションに関する大学の選考基準も同様だ。

任意団体や民間企業の内部ルールの話なら、どれが正義かと国民が頭を悩ます必要はない。自由市場の論理で事後的に裁定が働くと思うからだ。団体の人気や価値が高まればよいルールだったといえるし、評判が下がって淘汰されるなら悪いルールだったということになる。

変な選考基準の大学は受験しなければいい。変な社内ルールの会社には就職しなければいいだけの話だ。

団体や組織自体の評価は、市場が適切に定めてくれるだろう。大学が「卒業生優遇」や「発展的合格者」を露骨にやり過ぎれば、卒業生に対する社会的な評価が下がる。それは市場の論理で、大学の品位とか公民的善は関係ないと思う。

流血をともなわないPTSDまでパープルハート勲章に含めれば、当然勲章の価値は下がると思う。「どこまでひどい後遺症が認定基準か」というのは程度問題だが、PTSDについては「弱さの表れ」という暗黙の軽蔑が含まれている。

美徳や栄誉という論争の元になる価値観によらずとも、単に勲章の適用範囲を広げたいか狭めたいかという運用元の判断次第だと思う。逆に「死亡しか勲章を認めない」と厳格化してもよいわけだ。間口を広げて手当を厚くするために、増税するというなら話は別だが…

ジョン・ロールズが道徳的功績と区別して言う「正当な期待を持つ権利」。その根拠になるゲームのルール(課税率、合格基準)とはこのことだろうか。社会制度(ルール)だけでなく持って生まれた才能、育った環境、運などから生じる格差は避けられない。

「公正か公正でないかは、組織がこうした事実をどのように扱うかによって決まる」と、ロールズの『正義論』から引用されている。要するに政治哲学はルールが決まった後の「公正・平等な分配」しか議論できないのだと思う。

スポーツと名誉

抽選倍率10倍の東京マラソンに10万円払ってでも参加したい人は世の中にいる。「さらに10万円払えば公式タイムを10分縮めよう」というルールを東京マラソン財団が設定しても、別に不当だとは思わない。

ケイシー・マーティンがゴルフカートに乗ってよいかという議論も、プロゴルフ協会が独断で判断すればよい話だ。ゲートボールで遊ぶのに、障害者が補助器具を使ってはいけないという理屈はないだろう。

もしルールを緩和すれば、ゴルフというスポーツの社会的地位が下がるかもしれない。逆に「コースの移動中は50kgの重りを背負って歩かないといけない」という風にハードルを上げたら、ゴルファーの名誉と評価は向上するだろう。そのさじ加減は協会や大会の主催者が独自に決めればいいだけだ。