ワンピースと進撃の巨人、ナウシカにおける相対的正義と連帯の美徳

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マンガ『ONE PIECE』に出てくる海軍という組織が気になる。上官は背中に「正義」と書かれたコートを羽織って出てくるのだが、マイケル・サンデルの本を読むとなぜか海軍大将を思い出してしまう。

最近流行っているマンガは、正義の多様性というテーマを通じて政治哲学を論じるのがトレンドに思われる。そして辿り着く結論は、決まってサンデルが提唱する共同体主義ともいえる。なぜ相対的正義論から「仲間」や「友情」という連帯性が重視されるようになるのか、考えてみたい。

(以下ネタバレ)

『ワンピース』における正義

マイケル・サンデルの正義論が『ワンピース』に影響を与えている可能性が、たまに指摘される。「正義」本が出た翌年2011年発売の『ONE PIECE]』64巻 で、海軍大将3人の掲げる正義が以下のように説明されたからだ。

  • 赤犬:徹底的な正義(カントの純粋実践理性?)
  • 青雉:だらけきった正義(レッセフェール?)
  • 黄猿:どっちつかずの正義(オポチュニズム)

そもそも海賊が悪で海軍が正義なのか、大将の間に異なる価値観を持たせて戦わせているところが、いかにもサンデルのソクラテス的問答法のようだ。赤犬と青雉は欧米の政治哲学における派閥を代表しているように思う。

黄猿の立場は謎(東洋的?)だが、あえてレッテルを貼るならオポチュニズムだろうか。どの政党にも組みせず、思想的にはベンサムにもカントにもアリストテレスにも等しく賛成できるとしたら、それは日和見主義ないし御都合主義とでも呼ぶしかない。

黄猿はルックスも悪く一見、政治に無関心。それでいてことが起これば、働き者で無敵の強さを誇る姿は、いかにも日本人が好みそうなキャラクターだ。読者の人気投票では常に青雉に劣るが、個人的には応援したいところである。

海軍大将と並んで、海賊側では七武海のドフラミンゴが独自の正義論を吐いている。

正義は勝つって!?そりゃそうだろ 勝者だけが正義だ!

『ONE PIECE』 556話

海軍が役所で大将は官僚だとすると、ドフラミンゴの正義観はビジネスマンの経験則だろう。

『ドラゴンボール』のようなマンガに比べると、「ピッコロ大魔王・フリーザ様=悪」という勧善懲悪の単純ストーリーでないのが『ワンピース』の特徴だ。週刊少年ジャンプに連載の少年漫画なのに、まるで『風の谷のナウシカ』のような深みを感じることもある。

別冊少年マガジンに連載中の『進撃の巨人』でも、「正義」に関しては同じようなスタンスを感じる。

『進撃の巨人』の正義

最初は人間 vs 巨人というわかりやすい話かと思っていたが、どうやら誤解だったようだ。巨人はもともと人間で、壁の外にも別の国家があるという展開から俄然おもしろくなってきた。さらに「駆逐」の対象であったはずの壁外無知性巨人が、外部の大国から島送りにされた犠牲者だったというオチまである。

調査兵団104期生の中で、巨人化能力を持ったスパイたちの生い立ちも徐々に明かされる。伏線だらけで何度も読み返すのが面倒だが、相当練られたシナリオではないかと思う。ネタバレ解説サイトがいくつも立ち上がっているのには訳がある。

個人的にグッと来たセリフの一つは、以下のアルミンのもの。

すべての人にとって都合の良い人なんていないと思う

誰かの役に立っても他の誰かにとっては悪い人になっているかもしれないし…

だから…アニがこの話に乗ってくれなかったら、アニは僕にとって悪い人になるね…

『進撃の巨人』第31話

良い人、良いルールという話は、結局「誰にとってか」という文脈から切り離せない。「共同体の物語から離れた絶対的な正義は存在しない」というマイケル・サンデルの議論と、アルミンの冷めた見方には、どこか共通するものがある。

ユミルさま…よくぞ

エレンの激高的な性格に比べて、リヴァイやミカサのように寡黙な仕事人、アニやユミルといったシニカルなキャラの割合が多いのも『進撃の巨人』の特徴に思われる。

ライナーやアルベルトの同郷人でありながら利害が一致せず、壁内と壁外の国々どちらの大義にも組みしないユミルの言動は興味深い。ヒストリアへ宛てた手紙で久々に登場したと思ったら、またもや名ゼリフが飛び出した。

どうもこの世界ってのは、ただ肉の塊が騒いだり動き回っているだけで、特に意味は無いらしい。

『進撃の巨人』89話

壁の中にも外にも正義なんて存在しないし、そもそもどうだっていい…そんな無常観を感じさせるユミルの遺言。のちの93話で「顎の巨人」継承のためガリア―ドに食われたらしき描写がある。事実、巨人の能力は継承されているのですでに死んでいると思うが、まだ回収されていない伏線があるので気になる。

ユミルが退場するのは残念だが、初代ユミル・フリッツや、始祖の巨人と「不戦の契り」を交わした145代フリッツ王に関する展開が気になるところだ。戦争を回避してパラディ島に隠棲したフリッツ王の真意がストーリーの鍵だが、案外ユミルと共通する無常観なのかもしれない。

無知性巨人として永久に壁内をさまようのも、ある意味幸せといえるのだろうか。少なくともフクロウことエレン・クルーガーは、ダイナ・フリッツの処遇についてそう考えた。抑圧階級のエルディア人にとっては恐怖の巨人化極刑、通称「楽園送り」。フリッツ王が壁を築いて実現しようとしたのは、まさにそういう「愚者の楽園」だったのだろう。

エレンの悪人化

巨人を駆逐した後も進撃を続けて殺戮を繰り返すエレン・イェーガーは、ますます悪人面になっていく。マーレ国に潜伏し、ヴィリーを捕食して群衆を虐殺しまくる巨人化エレンが、従来型のヒーローでないのは明らかだ。

簒奪者エレンの主人公らしからぬエグイ凶悪発言を拾ってみよう

  • 死んじゃえよ、クソ野郎
  • お前らができるだけ苦しんで死ぬように、努力するよ
  • なぁ?向こうにいる敵…全部殺せば…オレ達、自由になれるのか?

『進撃の巨人』を23巻から読み始めれば、どう見てもエレンは悪者にしか見えないだろう。壁内世界の話は22巻でいったん終わって、そこからエルディア人の子供達を主人公にいた別のストーリーをかぶせてくるところがユニークだ。正義を相対化しようという作者の意図は明らかに思われる。

仲間と連帯

主人公は正義といえるのか?国家や軍隊に大義はあるのか?

麦わらの一味も悪者から解放した島々から、みかじめ料をもらって生計を立てているのだろう。海賊の本質は略奪という犯罪行為であり、そうでなければ海軍の存在意義がない。ルフィも裏ではやることをやっていると思う。

『ワンピース』と『進撃の巨人』には、「皆がそれぞれの正義を掲げてしのぎを削る」というシチュエーションが共通している。もはやそこには「宇宙怪獣の地球侵略を阻止する」というような、わかりやすい大義はない。

「何が正しいかわからない」という懐疑主義から導かれる結論が、「頼れるのは仲間だけ」という田舎のヤンキーみたいな道徳観念なのは少々物足りない。EXILEの『HiGH & LOW』という映画を観てつまらなかった理由の一つもそれだろう。

マイケル・サンデルが主張するコミュニタリアニズムにおいて、基盤となる共同体には国家>同胞>村>仲間>家族>兄弟>子という序列がある。この中で少年漫画的にストーリー化しやすいのは、やはり海賊や調査兵団の「仲間」ということになるのか。

ナウシカはリバタリアン

その点、マンガ版のナウシカでは登場人物たちが帰属するコミュニティーに多様性があった。どの陣営にもそれぞれの正義があり、「盗人にも三分の理」というエピソードが挟まれるのは興味深い。

  • 風の谷=農村コミュニティー
  • トルメキア=軍事国家
  • 土鬼=宗教国家

旅の剣士ユパ様のように、比較的フリーな実力者というポジションも出てくる。鷹の目ミホークやリヴァイ兵士長も似たような独立勢力といえる。

「旧文明が描いた予定調和なシナリオを主人公が破壊する」という結末は凄惨だ。オーマが握り潰す墓所の主は、平等主義のユートピアを目指していた。アリストテレス的な都市国家の美徳や、善良な市民という概念を表していたようにも思う。

これに対して、ナウシカは個人の自由を尊重するリバタニアンの立場を代表している。その根底には、どんな社会制度の下でも人間の本性は変わらないし、論争・闘争・戦争はなくならないという洞察がある。

ならば、全体主義より個人主義の方がまだましだ。レッセフェールの方が刺激的でおもしろい、人間味がある。それが『風の谷のナウシカ』の結論だった。社会システムより、人情や憐みという曖昧な価値観を重視するところが日本人的ともいえる。

『ワンピース』の仲間は死なないし、予想外のストーリー展開もなさそうだ。『進撃の巨人』でアルベルトとユミルは死んだから次は誰だろう。地に落ちたエレン・イェーガーが一体どういう正義を語るのか、今後の展開が楽しみである。