功利主義者とリバタリアンの会社経営論~給与の分配に関するジレンマ

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マイケル・サンデルの「正義」に関する本を読んで、身近な事例から道徳的ジレンマを考えるのがおもしろいと思った。国家や大学の使命・美徳という話も出てきたが、社会制度や道徳を論じるのに「会社組織」を想定してみるのもありだと思う。

国家というのはスケールが大きすぎて、政治哲学が実践に結びつく気がしない。単なる思考実験でしかない虚しさを覚える。

サンデルの本にはビジネスの話が出てこなかったので、あえて企業内における公正な分配というテーマを考えてみたい。会社の中にも富裕層~貧困層のような格差を認めることはできる。

給与配分のジレンマ

優秀な社員Aと、平凡な社員BとCがいるとする。Bがたまたま結婚して子供ができたとか、親の介護でお金が必要だとする。一方、Cはギャンブルでこしらえた借金返済のためにお金が必要だとする。

稼ぎ頭のAに多めに給与を出すより、その分をBやCに回すべきだろうか。Bの理由には大義を感じられるが、Cの理由は即却下だろう。あるいはCが改心して、ギャンブル依存症対策の支援団体に寄付したいと理由ならOKだろうか。

功利主義者なら、BやCに手当を出すことで、チームとしてのモチベーションが上がり会社の利益も伸びると考えるかもしれない。あるいはABCとも給与を一律平等に出すことで、給与計算や査定のコストをなくせるとも考えられる。

一方で、Aがやる気をなくしてパフォーマンスが下がったり、転職してしまうというシナリオも考えられる。パレートの法則により「2割の社員が全体の売上を生み出している」とすると、Aの離脱はダメージが大きい。BCのモチベーションアップよりネガティブな効用をもたらすだろう。

リバタリアンの経営論

功利主義の欠点を挙げるとすれば、「長期的に」どの選択肢が最善か判断できない点にある。

Aが抜けた後でもパレートの経験則が続くとしたら、残りの社員の20%が稼ぎ頭に変わる可能性はある。新たに採用した社員Dが、A以上のパフォーマンスを発揮してくれるかもしれない。株式市場と同じで短期的にはコントロールできそうだが、意外と予測できないものだ。

その点、リバタリアンの立場なら、社員BCの必要性という理由は問わず、Aが受け取るべきボーナスを不当に分配することは正しくないと断言できる。お金が必要な理由なんてものは、ギャンブルの借金でも災害への寄付でも無限に思いつく。程度問題なので、いちいちジャッジしていられない。

将来独立して社会に貢献する会社をつくりたいからお金が欲しい、というのも一見立派な理由に見える。しかし会社側からすれば、もっとたちの悪い利益相反といえる。雇用契約に縛りがなければ、あからさまに競合する会社を興されるかもしれない。

自分がAの上司なら、間違いなくAに公正な給与を請求したい。そうでなければ部下に示しがつかないし、チームが道徳的に腐敗するのを避けられない。結果的にどうなるかわからないが、努力が報われない、競争の自由がないという不公正がまかり通るのは避けたい。

個人の自由を尊重して、風通しのいいドライな社内制度を実現することが、リバタリアン上司にとっての正義だと思う。それでどう会社がどう転ぶかはわからないが、少なくとも正しい経営をしているような満足感は得られる。

功利主義者の経営論

一方でもし会社の利益を優先するなら、公正・正義という考え方にとわわれず、なるべく長期的に効用を最大化する方法を選んだ方が合理的だ。

成果主義というルールをきっちり示して優秀な社員を採用できるならAにボーナスは弾む。しかし、もしBCに分配して会社全体の利益が高まると予測できるもっともらしい理由があるなら、後者に重点配分するのもありだ。

「全社員給与一律」とか「サイコロでボーナスを決める」とか、変なルールにしたら社員は嫌がるが、メディアに露出できて宣伝になったりするかもしれない。「会社の利益」という究極目的を達成するためなら、戦略は柔軟に選べる。

ブランディングという観点からすると、成果主義がモットーの会社ならAにボーナスを弾んだ方が、社内文化や対外的な整合性を保てる。あるいは、家族主義で解雇がない代わりにサービス残業当たり前という平等主義の会社なら、給与一律支給というのも理に適っている。

真の保守派は、もし「増税して規制を増やす方が社会全体の効用が増す」という証拠があれば、「大きな政府」を認めることもいとわない。功利主義の大義の下で功利主義を否定する。そういう柔軟な考え方が、自由絶対尊重のリバタリアニズムより商売には向いているかもしれない。

平等主義者の経営論

あまり想像できないが、ジョン・ロールズ的な平等主義による会社の統治を考えてみる。

格差原理により、過大な役員報酬を最も能力の低い社員に分配すべきかもしれない。Xが社長でYが契約社員なのは、本人の努力でも道徳的功績でもなく、単に時代の趨勢が偶然もたらした格差に過ぎないからだ。突き詰めると、会社の資産を全社員の必要性に応じて分配して解散してしまう方が正しい気もする。

国家に比べて企業は営利組織という立場がはっきりしている。社会起業家というカテゴリーも出てきているが、営利を目指さない組織はそもそも会社でないと思う。仕事をしない社員や、論文を書かない研究者がいたとしても、何か組織に貢献している面がなければ客観的に評価するのは難しい。

残業代ゼロ法案とかブラック企業批判とか、共産党のポスターや平等主義陣営からは、ときどき本末転倒な意見を聞くことがある。会社が不満なら辞めればいいだけの話だ。別に国の憲法や法律と違って、そこまで企業に束縛される理由はない。ブラック企業が悪いなら、転職市場の流動性を高めて淘汰させれば済む。

社員を平等に扱うことばかり考えるよりも、営業して売り上げを伸ばす(パイを大きくする)ことを考える方が健全に思われる。お役所的な考え方で会社経営を考えることは難しい。そもそも資本主義のルールに相いれない気がする。

勝者が正義

リバタリアンよりは功利主義的なマインドを持った経営者の方が、うまく世の中を渡っていけそうだ。そもそも会社経営においては、○○主義というポリシーを持たない方が健全なのかもしれない。経営論を突き詰めると、どんな主義主張を持っていたとしても、しょせんは「結果」でしか評価できない。

「白い猫でも黒い猫でも、ネズミを捕ってくるのがいい猫だ」

『ONE PIECE』における海軍大将の正義は興味深いが、ビジネス的にはドフラミンゴの正義論が当を得ていると思う。